フラメンコ思いつくまま
私はフラメンコが好きだ。
でも、フラメンコなら何でも良いってわけじゃない。
良いフラメンコを聴くと,命がふるえる。そして、自分の中の血が騒ぎ、静かに沈殿していくのが分かる 。
フラメンコのフラメンコたる条件はしっかりしたリズムにある。それは機械的に正確というのではなく、魂の鼓動を伝えるものでなくてはならない。
最近のフラメンコは退屈するものが多い。長くて、名人芸の披露に終始している。
スペインでもフラメンコの神髄はなくなりそう。
「フラメンコ」の名前の由来は,フランドル人がなまったという説や,フラミンゴが変化したなどの説があるが、どれも定かでない。
マドリードでは観光客用のフラメンコが多い。
参考資料が少ない 。
歴史は約200年 (現在の形式が固まりはじめたのは)。
アフィシオナードの存在がある。
技術の習得に時間がかかる 。
フラメンコのリズムはその時々の感情で動く心臓の鼓動に聞こえる。
基本的には即興で演じられる。
純粋なヒターノは,シギリージャ,タンゴス,ブレリーアス一辺倒 。
アンダルシアの民謡に影響を受けている 。
フラメンコの魅力はフエルガ・フラメンコにあった 。
サパテアードはタップのそれより重く力強い 。
フラメンコの真髄はホンドにある 。
ワンステージで,ソレアーかアレグリーアスが演じられないことはない。
リズムが不規則(コンパス内の,一拍が同じ長さとは限らない) 。
ソレアーとアレグリーアスはリズムが同じ。
なのに、雰囲気はまるで違う。
曲名で呼ばず,形式でいう→アレグリーアス 、ソレアなど。
インドからアンダルシア地方に流れていったジプシーが創った 。
ヒターノは原則的にパリージョを使わない 。
パレハにおいて,サパテアードは2人の会話 。
曲をホンド(深い)、インテルメディオ(中間)、チーコ(浅い)と分ける習慣がある。この言葉は踊手、歌い手を分類するときにも使われる。
日本のアルティスタは、 ホンド(深い)、インテルメディオ(中間)、チーコ(浅い)の意識が薄い。
一人の踊り(ソロ)ではどんな具体的なストーリーも語られることはない。
パルマにもハーモニーが必要。
パルマだけで感情を表せる 。
日本人のパルマは感情がこもっていない。
原則として電気楽器を使わない 。
最初に歌がつくられた 。
歌はチーコであっても,踊りはグランデの場合もある 。
楽譜を使わない 。
ドゥエンデという独特の言葉が存在する 。
照明は無意味に凝るより。光と陰が効果的に計算されていれば生明かりがよい 。
日本では,発表会という独特な催しがある 。
日本ではカンテソロが演じられることが極端に少ない 。
日本ではタブラオで詩の朗誦が行われることはない 。
日本では歌い手が極端に少ない 。
日本の踊り手は振付を面白い、面白くないという観点で考える。感じるか感じないかが大事。
日本でフラメンコというと,カルメン,口にくわえたバラ,パリージョを思い出す人が多い 。
日本において,演唱活動だけで生計を立てている躍り手は一人もいない 。
日本においては,即興演奏は少ない 。
日本にはフラメンコ協会がある 。
日本には完全なフラメンコグループがない 。(アトランタ以外)
日本には厳しくフラメンコを観れるアフィシオナードが極端に少ない 。
日本には誇りと品格を持った踊り手は少ない 。
日本には専業のパルメーロ(ラ)がいない。
日本には本格的なタブラオが1軒もない 。
日本の舞踊団には専属のギタリスタやカンタオールがいない 。
日本には録音テープだけでフラメンコを踊る踊り手がいる 。
日本の大御所はクワドロフラメンコをやらない 。
日本の踊り手はパルマを軽視するきらいがある
最近の踊り手はやたらに難しいサパテアードをやりたがる。
日本の踊り手は心より技術を優先する 。
日本の踊り手は行く先が分からないのに急いでる 。
日本の踊り手は自分の実力を顧みず,でたがりが多い 。
日本の踊り手はフラメンコのもつ情熱という言葉にあこがれている。フラメンコをやっただけでは情熱は手に入らない。
日本は圧倒的に踊り手が多い 。
日本在住のスペインアルティスタはCantaorasが多い 。
日本在住のスペイン人アルティスタは,どこかで日本のフラメンコを認めていないところがある 。
日本人だけの本当のフラメンコを見れる機会は少ない
最近ののBailaoraは踊り手というより躍り手
日本のフラメンコ人口はスペインより多いといわれている
日本人は世界一のフラメンコ好きな民族
日本人のハレオは感情がこもっていない
日本人のリズムは甘い (規則でリズムをとらえ、心で捉えていない)
日本人は,タブラオで演じるよりも,大きな劇場でやれる人の方が上と思っている
日本人はやたらとフラメンコと違う音楽を組み合わせたがる
日本人は歌手がいなくても平気でステージを構成する。―最近はさすがに少なくなった
フラメンコを理解するには,フラメンコを生み出した人々や不朽のものにした人々の、 人生観、姿勢、習慣、信念、好き嫌いについて 何らかの理解ができるようにならなければならない。
全体にあか抜けない⇒洗練されていない⇒素朴⇒それが良い 。
フラメンコの神髄はドゥエンデとグラシア 。
何を歌っているのかを理解するよりももっと大切なことはどのように歌っているかを感じとることである。―
ギターや歌のニュアンスを感じて踊っている踊り手が少ない
アンダルシアのフラメンコおばちゃん達は太っている人が多い
(1級品の踊り手はやっぱり太っていない)
アントニオ・ガデスは線で踊る。マリオ・マジャは点で踊る。
グランデとチーコをひとりで,歌い,または踊り分けられるアルティスタは少ない→別に悪いことではない。その道に徹することが大事。
スペインのアルティスタは疲れを知らない―にみえる。
スペイン内では意外にパージョの活躍が多い
フラメンコにあまり通じていない大衆の大多数にとって,踊り手達はショーの人気を一身に背負うフラメンコの花形である
いちばんフラメンコの名に値しないのが踊り手である例がしばしば見られる。
技だけを見せる者と,心を表現する者がいる
スペイン人はどんなアルティスタも,リズムだけはそれなりにしっかりしている
バックにまわったとき一生懸命やる踊り手が少ない
身体の大きな踊り手で大成した人が少ない
技巧の名手であったとしても、必ずしもホンドの部門でのアルティスタである資格にはならない。
技巧の名手は冷たい機械になりがちである 。
技術よりも深さが大事。
良い踊り手の胸回りには気迫を感じる。
良い踊り手の生涯に持つレパートリーは極端に少ない。
日本の踊り手のレパートリは多い。
Bailaoraのいのちはブラセーオ。
クワドロドロフラメンコにおいて、自分の踊りが終わると気を抜く踊り手が多い
よいアルティスタの舞台は、同じモノを何回観ても飽きない。
フラメンコはフラメンコ的な生き方が単に外部に現われた表現に過ぎない。
フラメンコは次つの要素で構成されている。これらの要素が純粋に表現し合って結合した瞬間に 最高のフラメンコが生まれる。
.・ 歌(Cante)・ 踊り(Baile) ・ギター演奏(Toque)・ ハレオ(jaleo) ・詩の朗誦
フラメンコのリズムは2拍子系と,3拍子系に便宜上分類されている。
――あまり意識しないほうが良い。
フラメンコには60以上の形式があるが,
一般に演じられるものはその半分にも満たない 。
日本人Bailaoraは
定期的にスペインへ振付を仕入れに行く
日本にはプロフェッショナルのパルメーロ(ラ)がいない。
日本では、スペインからプロの踊手、歌い手、ギタリスタは呼ぶが、専業のパルメーロは呼ばない。
フラメンコの踊りはバックとのコミュニケイション―ハーモニーが大事。
フラメンコと普通の音楽の概念とはは切り離して考えるべき。
プロフェッショナルは沢山いるが、真のアルティスタは少ない。
条件がそろえば,フラメンコはマイクを使わないほうがよい 。
最近の踊りは1曲が長い。
日本の踊手のリサイタルには殆どスペインからのアルティスタが参加する。
良い踊り手の手のひらからは「気」がでている 。
フラメンコ教室のほとんどが、最初にセビジャーナスを教える。
フラメンコのグループは大きく分けて2種類ある。
1つは、ファミリーであり、
1つは個人個人で活躍しているアルティスタが集まって作る即席のグループである。
ファミリーの良さは、バックにまわったとき、自分の技術を見せることより踊手を引き立てようとする気持ちが顕著である。
ハレオの質は大きく3種類に分けることが出来る。
1つは、ファミリー的な思いやりのハレオ
1つは、観客に徹した感動からでるハレオ
1つは 、自分が目立ちたいハレオ
クワドロフラメンコの心得は「皆は一人のために、一人は皆のために」 の精神が必要。
技術のあるアルティスタを集めただけでは良いフラメンコはできない。
フラメンコは一般に言う音楽の概念とは切り離して考えるべき。
ただ、ギターには音楽の概念を当てはめることができる。